弘前・相馬地区ミステリー第8弾~相馬に残る長慶天皇にまつわる伝承~
相馬地区には長慶天皇にまつわる伝承が残っています。
その伝承にまつわる場所をいくつか紹介したいと思います。▲相馬地区・紙漉沢にある「上皇宮」
◆長慶天皇とは
朝廷が吉野の南朝と京都の北朝に分かれていた南北朝時代に、第97代後村上天皇と嘉喜院(藤原家の娘)との間に生まれ、南朝3代目の天皇として即位したとされるが長慶天皇です。
南北朝の動乱期に即位し、晩年の状況がほとんど分からなかったことからか、長慶天皇の在位・非在位の議論は江戸時代から行われていました。徳川光圀は『大日本史』において在位説を、新井白石は『読史余論』で非在位を唱えました。
大正時代に入り、矢代国治(歴史学者)の研究や武田祐吉(国文学者)の発見によって在位が確証づけられ、その後宮内庁の調査を経て、1926年に皇統に加えられました。これによって長慶天皇は正式に第98代天皇として公認されることになります。
◆相馬に伝わる長慶天皇伝説
長慶天皇の晩年の動向を伝える史料がないため、全国各地に潜幸伝説が生まれました。青森県内をみると、南部町の恵光院(けいこういん)と有末光塚(うばこうづか)や青森市の広峰神社、そして弘前・相馬地区に長慶天皇終焉の地の伝説が残っています。
相馬地区の紙漉沢には上皇宮という神社があります。その社殿の奥の山道を登ると「長慶天皇御陵墓参考地」があり、伝説の根拠となっています。▲「上皇宮」の社殿▲山道を200メートルほど登る
ちなみに、陵墓とは皇室関係の墓所のこといい、陵墓参考地は被葬者の具体的な特定はできないものの、皇族が葬られた可能性のある候補地のことを言います。▲登りきると、そこに「長慶天皇陵墓参考地」がある
現在、京都の嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)が長慶天皇の御陵だと正式決定されたことによって、紙漉沢は参考地の指定を解かれ「旧参考地」となりました。▲柵の内側の様子
◆相馬地区に残る長慶天皇由来とさせているもの
長慶天皇陵墓参考地の指定が解かれたとはいえ、長慶天皇に由来されるものが相馬地区に残っています。その例が、地名です。▲赤丸部が「上皇宮」で、その付近に「紙漉沢」と「五所」という地名がある
例えば、紙漉沢という地名は、長慶天皇に同行した高野山の僧侶が製紙の方法を教えたのが地名に残ったと伝わっています。
紙漉沢には県内で唯一の本格的な紙漉き体験施設(「紙漉の里」)があり、定期的に和紙作り体験会が催されています。
※参照「弘前・相馬地区ミステリー第7弾 ~弘前に残る和紙にまつわる地名~」
五所という地名は長慶天皇の御所があったことに由来しています。
御所という地名は恐れ多いということで漢数字の「五」になった経緯があるそうですが、御所温泉のように今も御所が使われている例はあります。
五所が五所川原市の名前の由来になっているとも言われています。
※参照「弘前・相馬地区ミステリー第2弾 ~相馬地区と五所川原の深いつながり~」▲御所温泉の様子(所在地:弘前市大字五所字野沢41-1)
他にも、相馬地区には「長慶森」や「長慶峠」などの地名や「長慶閣(公民館)」「長慶苑(特別養護老人ホーム)」といった施設、「長慶橋」といったインフラにまで、長慶の名がつけられています。
以前取り上げた「長慶金山」にも付いていますね(笑)伝説が伝説を呼ぶというループが面白いです。
※参照「弘前・相馬地区ミステリー第6弾 ~隠し金山と言われる長慶金山はあるのか~」▲県道28号にある「長慶橋」
◆まとめ
相馬地区には長慶天皇伝説が残っており、今もなお「長慶」という名が大切にされています。まちあるきをする際は、「長慶」という名前に注目してみてください!
【参考文献】
鳴海恒男『相馬村史』津軽書房 1985年
【地図】
出典:国土地理院ウェブサイト
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