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弘前・相馬地区ミステリー第2弾~相馬地区と五所川原の深いつながり~

「相馬地区にある五所と五所川原の名前が似ているのには理由があるんだよ~」
と、地域の人から教えてもらいました。

さらに話を伺うと、相馬地区と五所川原に深い関係があることを2つ知ることができました。
詳しく調べてみました。

▲弘前・相馬地区にある五所神社

 

◆五所神社と五所川原の関係

どうやら五所川原の地名の由来は、五所神社の“五所”に関係があるみたいです。
これが、相馬地区と五所川原の深いつながり1つ目です。

話は江戸時代にさかのぼります。
明暦(1655~1658)、寛文(1661~1673)、貞享(1684~1688)の3度、岩木川の大洪水によって、五所神社にあった長慶天皇のご神体と伝えられる祠(ほこら)が流されました。

▲五所神社は、元は下五所(赤丸部)にありましたが、たびたびの水害によって寛延(1748~1751)に現在の場所の五所野沢(矢印部)に遷して祀られるようになりました
「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)より作成

流された祠は、なんと3回とも同じ場所に漂着しました。相馬地区の人たちは、はじめは事情を話して持ち帰っていたものの、3回も同じところに流れ着くことをしだいに天意であろうと考え、漂着した場所に祠を安置することになったといいます。そこが現在の五所川原市にある元町八幡宮です。

▲漂着したと伝えられている場所(赤丸部)と現在の元町八幡宮の場所(矢印部)
「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)より作成

長慶天皇ゆかりのご神体が漂着した川原ということで、御所の川原、御所川原となりました。その後、“御所”川原という名前はあまりにも恐れ多いということで、五所川原という地名になったのだそうです。あくまで1つの説ですが、非常にロマンあふれる伝説だと思います。

ちなみに、長慶天皇は相馬地区に来ていないとされています。しかし五所川原市が編集・発行した「五所川原の地名」によると、長慶天皇もしくは天皇の親族の高貴な誰かが相馬地区に関係していないと、「元町の八幡宮の氏子に、遠く離れた新宮の住民がいることの理由が納得できない」みたいで、これは「五所川原地区の住民の共通した思い」であろうということらしいのです。

▲相馬地区にある「上皇宮」。長慶天皇御陵墓伝説の地とされている

 

◆元町八幡宮に行ってみた

百聞は一見に如かずということで、五所川原市の元町八幡宮に行ってみました。
境内に入って、まず目に留まったのが「五所川原地名発祥之源地」と書かれた石碑です。
石碑の大きさから、相馬地区がらみの地名である伝承を大切にしていることが伝わります。

▲高さは3メートル以上あったと思います

石碑の近くには、元町八幡宮の由来の解説板がありました。

▲元町八幡宮が五所川原の地名発祥の地であるというのは、あくまで一説にすぎません

▲元町八幡宮の本殿と拝殿

「相馬村誌」によると、安置されているご神体および厨子(ずし)は非常に立派な装飾が施されており、「当時の民間ではできるわけがない。寒村僻地(へきち)ではましてできない」ほどの出来栄えであるそうです。

また、明治の神仏混交の際に吟味役が五所川原に来て、ご神体を拝見したとき、「これまで、各町村の数多くの御神体を拝したが、こんな立派な
ご神体を拝することはなかった。さぞ由緒あるものに違いない」と言ったことが記録に残っています。
こうした記述からも、長慶天皇がらみであるというロマンが広がります。

 

◆相馬地区に五所川原の発展に寄与した人物がいた⁉

五所川原の開発に尽力した人物が相馬地区にいたらしいです。
これが、相馬地区と五所川原の深いつながり2つ目です。

五所川原市栄地区にある広田は、江戸時代の寛永~慶安(1624~1652)にかけて開発が進みました。その開発に、相馬地区・紙漉沢の広田氏が関わり、五所川原の発展のために力を尽くしたと言い伝えられています。

▲広田氏のお墓。相馬凸凹学会の加賀新一郎代表に案内してもらいました

かつては、五所川原の人たちが大型バスでやってきて、相馬地区・紙漉沢にある広田氏のお墓参りに訪れていたそうです。

 

◆まとめ

歴史的になにかとつながりのある相馬地区と五所川原ですが、ゆかりのある地という関係性から住民交流も盛んであったみたいです。姉妹都市のようなイメージでしょうか。

いつしか交流はなくなったそうですが、
・五所川原の地名の由来となった五所神社とのつながり
・五所川原・広田の開墾に尽力した広田氏とのつながり
など、相馬地区と五所川原をつなぐ伝承と歴史だけは残していきたいものです。

▲五所神社の宵宮の様子。五所川原の人にも来てもらいたいです

【参考文献】
鳴海恒男『相馬村史』津軽書房 1985年
『五所川原市合併10周年記念 五所川原の地名』五所川原市(編集・発行) 2015年
https://www.city.goshogawara.lg.jp/lib/document/chimei.html

【地図】
本記事で使用した地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。左側が1912年、右側が現在の地理院地図になります。

【協力】
相馬凸凹学会代表 加賀新一郎さん


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