弘前・相馬地区ミステリー第7弾~弘前に残る和紙にまつわる地名~
弘前には和紙にまつわる地名がいくつか残っているそうです。
例えば、「紙漉町(かみすきまち)」「紙漉沢(かみすきざわ)」「楮町(こうじまち)」…。
中心市街地から郊外にまで点在しているようです。
今回は、市街地にある紙漉町と相馬地区にある紙漉沢を中心に調べてみました。
▲紙漉町にある「富田の清水(しつこ)」 日本の名水百選に指定されている
◆市街地に残る和紙にまつわる地名「紙漉町」
弘前高校や最勝院の近くに位置する紙漉町は、「富田の清水(しつこ)」に象徴されるように、今も昔も清水の湧く場所です。
1686年、弘前藩4代藩主の津軽信政が、紙漉師である熊谷吉兵衛を弘前に招き、紙漉に適した清水の湧く地に紙漉座を設けて各種の紙を漉き、藩用にあてたことが地名の由来となっているそうです。
紙漉町で作られた和紙は非常に良質なもので、幕府への献上品になったこともあります。
「富田の清水(しつこ)」にはいくつか水槽があり、紙漉きは4番目の水槽で行われていました。古紙を用いた紙漉きだったようです。
弘前に現存する紙漉きの歴史を感じられる場所となっています。
12代藩主の津軽承昭のときには、直営の紙漉座を設けたり、楮の植林に努めたり、製糸業の振興を図る動きがみられましたが、今よりも寒冷な気候で楮がうまく育たなかったことと、飢饉対策で食用作物の栽培が優先されたことが影響して、ついには産業として盛んになることはありませんでした。
その後、時代が明治から昭和へと移り変わるにつれてさらに衰退し、現在は町名や「富田の清水(しつこ)」に名残を残すばかりとなっています。
◆相馬地区に残る和紙にまつわる地名「紙漉沢」
市街地から車で15キロほど離れた相馬地区には、紙漉沢という地名があります。こちらも和紙に関する地名です。
地名の由来は室町時代までさかのぼります。
南北朝3代、第98代長慶天皇は相馬地区に潜幸(せんぎょう)されたときに同行していた高野山の僧侶秀明が製紙技法を教えてから製紙業が栄え、その地の名前が紙漉村、紙漉沢村から現在の紙漉沢に変遷してきたそうです。製紙業が栄えた裏付けなのか、紙漉沢には県内で最も古い寺子屋跡があります。
残念ながら、紙漉沢に当時の紙漉きの歴史を感じられる施設跡などの名残は残っていません。
ただ、紙漉き文化を残していこうとする取り組みは行われています。
◆紙漉き文化を残す取り組み
紙漉沢には、ビーターという攪拌(かくはん)機や電気式の乾燥機などの本格的な機械が完備した「紙漉の里」という県内唯一の紙漉き専用施設があります。
そこを拠点に「相馬紙漉き隊」という地元有志からなる団体が、近隣の公民館や小・中学校、大学と連携し、紙漉き文化を残していく取り組みを行っています。
▲相馬紙漉き隊が協力した、弘前大学の「りんご・さくら和紙プロジェクト」
毎年7月には中央公民館相馬館で体験会を催しています。市内はもとより県内外からの参加者がやってきています。
弘前市立相馬中学校は、紙漉き隊の指導のもと生徒自身が和紙を手掛け、その和紙を毎年卒業証書に使っています。平成8年度から始められた特色ある取組で、地域の伝統文化に親しめるだけでなく、思い出と証書というカタチにも残るため生徒とその保護者からも好評だそうです。
口コミが広がっているのか、最近では市外の学校から問い合わせが入るようになってきています。
▲弘前市立相馬中学校の生徒が自身の卒業証書の和紙を作っている様子
筆者が櫻田市長から拝受した辞令は、相馬紙漉き隊による和紙で作られていました。
相馬地区地域おこし協力隊用の特別仕様だったようです。
◆まとめ
弘前の和紙の歴史が途絶えることなく、現在も相馬紙漉き隊や弘前大学の「りんご・さくら和紙プロジェクト」などによって伝わり続けていることに驚かされました。みなさんも地名から歴史をひもといてみてはいかがでしょうか?
【参考資料】
弘前市立図書館「おくゆかしき津軽の古典籍」
弘前大学「HIROMAGA」
鳴海恒男『相馬村史』津軽書房 1985年
月刊『弘前』5月号 第46巻 第5号 通巻538号
【協力】
相馬紙漉き隊 大場良子さん
【地図】
出典:国土地理院ウェブサイト
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