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弘前・相馬地区ミステリー第1弾~知られざる縁結びのパワースポット~

相馬地区地域おこし協力隊の穗坂修基(ほさか・もとき)です。
弘前・相馬地区のミステリーを紹介するシリーズ第1弾。
今回は、「知られざる縁結びのパワースポット」について書いていきます。

 

◆縁結びのパワースポットと呼ばれる場所に行ってみた

ある日、
「弘前・相馬地区の紙漉沢(かみすきざわ)町会に、弘前市民がほとんど知らない縁結びのパワースポットがある」
と、地域の人から教えてもらいました。

それは「大石明神(おおいしみょうじん)」という神社のご神体とのこと。
さっそく行ってみました。

「山のたまり場 夢想館(むそうかん)」という公共施設の前の道を、西へ300メートルほど進み、右手に見える丘の頂上、りんご園の細い道の先に「大石明神」はあります。

▲「山のたまり場 夢想館」に車を停めました

▲石碑の左側の道を300メートルほど直進します

▲りんご園とりんご園の間の細い道を進みます

▲高さ3メートル近い大石のご神体と鳥居、祠が見えてきます。ここが「大石明神」です

地域の人曰く、この「ピラミッド型―岩木山型の高さ3メートル近い大石」が縁結びのパワースポットであるらしいのです。

 

◆相馬の人々と岩木山をつなぐ媒体だった⁉

「大石明神」がどこからきたのか、いつからあるのかはわかっていません。
言い伝えによると、太古の大噴火で岩木山から飛んできたみたいです。
祖霊の住む山として古くからあがめられてきた岩木山から飛んできた大石ということで、相馬の人々は大切にしてきました。

津軽地方では、村の裏山のようなところに「模擬岩木山」という遥拝(ようはい)所に見立てた場所があり、参詣が体力的にも経済的にも困難な人が、岩木山の代わりに参詣する風習がありました。

「大石明神」もその一つ。現在、岩木山は林の陰に隠れてしまっていますが、「岩木山神社と岩木山頂を見渡せる位置で、この祠堂(しどう)を通して岩木山を拝んだ」という言い伝えがありました。相馬の人々は大石そのものを信仰対象としたのではなく、人と岩木山をつなぐ媒体として祀(まつ)っていたのではないかと考えられます。

▲参考文献:(左)鳴海恒男『相馬村史』、(中)小館衷三『岩木山信仰史』(右)金子直樹「岩木山信仰の空間構造―その信仰圏を中心にして」

 

◆皇族が参拝に来た⁉

相馬地区・紙漉沢町会に住む成田尚道さんに話を伺うと、
「子どものころ母親から、秩父宮様が上皇宮と大石明神に参拝したとよく聞いた」のだとか。
事実、1935年8月から1936年12月まで、昭和天皇の実弟である秩父宮雍仁(やすひと)親王は、弘前歩兵第三十一連隊第三大隊長として御在隊されています。

成田さんは、
「隊の射撃訓練のために大石明神周辺に訪れ、その際、上皇宮と大石明神に参拝した」
と聞いたみたいで、皇族が参拝に来るような場所ということで、当時の紙漉沢町会の人々は大変ありがたがり、大切にしたと言います。

 

◆砕こうとしたら災いが起きた⁉

「大石明神」周辺は、軍隊の射撃練習の場に選ばれるような、広々とした牛馬の飼料の草刈場(まぐさ場)でした。まぐさ場は岩木山の裾野の大石神社にみるように、若い男女の出会いの場、1961年に映画化された『草を刈る娘』の世界であったそうです。また、1940年代までは、領界について紙漉沢と国吉(東目屋)の間で紛争があり、領界をめぐってもめたことから「モメ山」と言われていました。地図をみると、現在でも領界が複雑に入り組んでおり、もめた名残がうかがえます。
1950年代には、祭りや遠足、運動会、スキーがおこなわれる行楽地、かんがわら(芝生)になりました。
草刈りを通して男女が出会う場であったり、遠足やスキーを通して恋が発展する機会の場であったり、人々が集う場だったと言えます。

その後、耕運の機械化により一帯は急速にりんご園になり、現在のようにりんご園の中に「大石明神」が残る景観になりました。

▲りんご園の中にある「大石明神」。矢印のところ

実は、園地拡大に伴って、大石を排除しようとしたこともあったそうですが、
・「石工なにがしがこの大石をうち砕こうとして大怪我をした」
・うち砕こうとした人が急死した
・割ろうとしたら割れ目から血が噴き出してきた
などの災いがおきたと言い伝えられ、神威を恐れた相馬の人々が祠堂を建立しました。

あくまで個人的な想像の話ですが、相馬の人々は
・岩木山信仰の媒体として大切にしてきた歴史がある
・秩父宮雍仁親王が訪れたありがたい場所である
・出会いの場としての思い出があり、その縁で結婚した人もいる
という歴史・伝承、事実を鑑み、大石を保存する理由にしたのだと思います。

そして、砕けば災いがおきると言い伝えることにして、後世にわたって大石を保存しようとしたのではないでしょうか。

 

◆縁結びのパワースポットと呼ばれるようになったわけ⁉

「大石明神」が縁結びのパワースポットと呼ばれるようになった理由や根拠は、調べてもわからなかったです。

おそらく、
・岩木山信仰の媒体として大切にしてきた歴史がある
・秩父宮雍仁親王が訪れたありがたい場所である
・出会いの場としての思い出があり、その縁で結婚した人もいる
という歴史・伝承、事実が絡み合って、縁結びのパワースポットと呼ばれるようになったのだと思います。

そもそもパワースポットという言葉自体が、多くのメディアが取り上げるようになったのは1990年代から。そのことからも、近年になって呼ばれるようになったのだと推測します。

 

◆まとめ

「大石明神」は、縁結びのパワースポットである/でないにかかわらず、その歴史的背景やりんご園の中に大石がある景観に一見の価値があります。

岩木山の眺望もいいので、興味のある人は一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

▲存在感がありました

▲「大石明神」の周辺からの眺め

 

【アクセス】

山のたまり場夢想館(駐車場あり)から徒歩4分

 

【参考文献】
小館衷三『岩木山信仰史』小学館 1975年
鳴海恒男『相馬村史』津軽書房 1985年
金子直樹「岩木山信仰の空間構造―その信仰圏を中心にして」『日本人文地理学雑誌』1997年、第49巻、第4号、pp.311-330.

【参考資料】
水沢忠明「相馬地区の歴史的概念」

【協力】
成田尚道さん(紙漉沢町会)


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