弘前ぐらし 弘前移住情報サイト

青森県弘前市の移住応援サイト「弘前ぐらし」は移住やUIJターンの情報を発信しています。仕事探しのための求人や転職情報、補助金等の支援、暮らしのための医療、福祉、住宅や空き家情報、移住イベント情報、就農や起業までサポート。有楽町の東京事務所でも相談受付中。

弘前・相馬地区ミステリー第5弾~舟打(ふなうち)鉱山の「今」~

相馬地区の大助集落・沢田集落を抜け、相馬ダムのさらに奥、作沢川の上流部に「舟打鉱山跡」があります。
地元の人からは「今は何もないよ」と言われたものの、何もないことはないだろうと思い、行ってみることにしました。
まずは舟打鉱山について下調べをしました。

◆舟打鉱山とは

ときは明治時代。明治政府は1919年に開墾助成法を制定し、全国的に未開地開拓を奨励していました。
相馬地区(旧相馬村)の人々も、政府の方針に従い、沢田や萱萢(かややち)などの低地で土質のよい土地を選んで、芝や雑草を焼き払って開墾し、アワ・ソバなどの作物の種をまき、開拓に励みました。
そんな中、光沢のある岩石が見つかります。
その岩石を鑑別したところ、鉛、亜鉛、銅などが入り混じった鉱石であることがわかり、採鉱が行われるようになりました。これが舟打鉱山の始まりであると言われています。


▲戦前(1915-1942)の舟打鉱山近辺の地形図

その後、採鉱権がさまざまな個人や企業を転々としましたが、最終的に日本曹達(にほんそーだ)株式会社の所有となりました。
第二次世界大戦という時代背景のもと増産が強いられ、全国の若者が奉国隊の名のもとに動員され、昼夜を問わず採掘していたといいます。
最盛期には約1000人の住民が生活しており、診療所、独立した小・中学校も完備した、行政区の「舟打」でありました。

 


▲舟打鉱山の全景(相馬村教育委員会『舟打鉱山の興亡』より引用)

戦後、貿易自由化によって外国から安価な鉱石が輸入され、舟打鉱山は大きな打撃を受け、閉山することになりました。従業員には再就職の斡旋(あっせん)や保障、退職者には退職金や慰労金などが支給され、1961年9月、集落の解散とともに、行政区としての「舟打」も消えました。

残った小・中学校の校舎、住宅、事務所などの鉱山諸施設は、競争入札で相馬地区(旧相馬村)の人たちが落札し、解体して運び去りました。1982年、山村構造改善事業として跡地にキャンプ場が作られましたが、2012年に施設廃止しました。


▲キャンプ場がオープンした当時の広報誌(「広報相馬」昭和57年5月号より引用)

◆舟打鉱山跡に行ってみた

舟打鉱山、舟打集落の歴史を調べたことで、地元の人の「今は何もないよ」という言葉に信ぴょう性が出てきました…が!!!
何かはあるはずだと思い、行ってみました。

作沢林道を通り、相馬ダムのさらに奥、舟打鉱山跡を目指します。
ちなみに、作沢林道に入ったあたりからスマホの電波は一切なくなりました。
事前に登山用のGPSアプリなどをインストールしておくと安心だと思います。

▲舟打鉱山の跡地

舟打鉱山跡は案の定、更地になっていました。
人が住んでいた痕跡や集落があった面影がないか、辺りを散策したところ、いくつかのモノを見つけました。


▲「舟打鉱山友之会」の碑。会については不明

 

▲無縁仏を見守るお地蔵さん

▲石垣の跡

◆坑道を見つけちゃったかも…

せっかく鉱山跡に来たので、なんとしても坑道を見つけたいと思い、「青森県舟打鉱山鉛・亜鉛鉱床坑内調査報告」という論文を参考にして坑道を探してみました。探すこと1時間…。
作沢川沿い(緯度(10進):40.536167、経度(10進)140.328442)に横穴があるのを発見しました。


▲作沢川沿いにある横穴

覗いてみると…。洞窟とは違うような、坑道っぽい雰囲気を感じました。
詳しく観察すると、坑内の崩壊を防ぐ保坑(ほこう)に使われた木枠が等間隔で並んでいることから、おそらく坑道、もしくは鉱山に関係する何かであるのだろうと推測されます。

▲坑内の崩壊を防ぐ保坑(ほこう)に使われたであろう木枠が散乱している

崩壊の危険がある上、不気味さがあったので奥まで入りませんでしたが、冒険心がくすぐられました。奥がどうなっているのか、すごく気になります。

◆まとめ

「今は何もないよ」と言われている舟打鉱山跡ですが、よ~く探すと人が住んでいた痕跡や鉱山があった名残を見つけることができます。
興味のある人は行ってみてはいかがでしょうか。

余談になりますが、
2024年5月、首都圏に住む旧相馬村出身者らでつくる青森県相馬会(成田昭司会長)の「第65回相馬村出身者の集い」が開かれ、私も参加してきました。
参加者のなかには舟打集落で生まれ育った方や舟打集落で遊んだことがある方がおり、舟打での思い出を語っていました。
閉山から時は経ちましたが、人々の記憶の中で「舟打」は生き続けているのだと思わされる出来事でした。


▲2024年5月19日、東京・上野のレストランで開かれた「第65回相馬村出身者の集い」

【地形図】
スタンフォード大学「Japanese Military Maps」(https://purl.stanford.edu/jq790yc8188)

【参考文献】
鳴海恒男『相馬村史』津軽書房 1985年
相馬村教育委員会『舟打鉱山の興亡』1994年
伊藤昌介・服部富雄 「青森県舟打鉱山鉛・亜鉛鉱床坑内調査報告」『地質調査所月報』1951年2巻pp.197-202.


本記事に関する著作権やその他の権利は弘前市に属します。

弘前市の許可なく、本文や写真を無断で転載することを禁止いたします。