Go To 大森勝山遺跡 ―イマジン! 縄文ライフ
2021年世界遺産登録をめざす「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つ、大森勝山遺跡は岩木山のすそ野、弘前市大字大森にあります。縄文時代の晩期に200年にわたってつくられたという環状列石(ストーンサークル)と、竪穴式建物跡などで、1959年から発掘調査された遺跡です。
2020年8月、遺跡は保護のために盛り土をし、その上に自然石材で環状列石を実物大に復元したとのこと。「弘前縄文の会」の案内で大森勝山遺跡を見学してきました。
◆岩木山麓をバスは走る
11月23日は3連休最後の日、朝方まで降っていた雨はあがり風もなく、フィールドワーク日和でした。バスは定刻通り弘前駅城東口を出発! 配布されたパンフレットは「大森勝山遺跡周辺の歴史的文化遺産」というタイトル。めぐるコースは、独狐(とっこ)を通過し、中部広域農道やまなみラインを走り、十腰内(とこしない)にある巖鬼山神社(がんきさんじんじゃ)→十腰内Ⅱ遺跡→大森勝山遺跡→大石神社へとなっています。
▲「弘前縄文の会」の代表・今井二三夫さん
案内は「弘前縄文の会」の代表・今井二三夫さん。聞くところによれば今井さんは弘前大学在学中から、大森勝山遺跡の発掘にかかわり、卒業後は弘前市の職員として教育委員会などに従事し、退職後も役割を果たされているようです。だからか、メモや原稿も見ずに、年代や人名、地名などスラスラと淀みなく説明してくれました。
巖鬼山神社は樹齢1200年もの杉が深い杜をなし、神秘的な空気に包まれています。津軽最大の「パワースポット」として信仰されているのだそうです。本当になぜ、こんな場所にこれだけの社があるのかと感動します。
▲巖鬼山神社
この場所の近く、なだらかな丘を登ると林の向こうに「かめこ山」が見えます。このあたりを「十腰内Ⅱ遺跡」といい、たくさんの土器が出土。土器の文様で年代順に整理、ここから出土した土器の文様が東北北部縄文時代後期の年代基準になっている中心遺跡として知られているそうです。シンボルとなった土製品のイノシシも、ここから見つかったと知ってうれしい! 来た甲斐がありました。
▲「かめこ山」の前で説明を聞く
▲弘前市立博物館に展示されている猪型土製品
◆縄文人の祈りの場? 大森勝山遺跡
大森勝山遺跡はストーンサークルなど、儀式に使用したであろう場所と考えられていますが、縄文時代人がどこに暮らしていたのか、まだわかっていません。集落として確認できるのが「十腰内Ⅱ遺跡」。そのあたりや、裾野地域を発掘調査すればもっとわかるかもしれないと、今井さんは言います。ワクワクしますね。
バスはその裾野地域を通過し、右折して今回のメインの大森勝山遺跡に。岩木山のふもとに広がる山林は葉がわずかに残り太陽の光をうけて黄色く輝いています。
整備はされているけれど大型バスの運行には厳しい狭い道を、運転手さんは慎重にハンドルを操作し、駐車場に止まりました。
台地に登る道は整備のためにつけた道。世界遺産に登録されるには、人工的なものはなくさなければならないと説明されました。「建物などがないね。よくまあ、開発されずに…」と、参加者から声が。
▲遺跡の入り口に案内板
▲坂道を登り終わると、視界をさえぎるものなく岩木山が飛び込んできました
◆縄文時代人の、目や耳になって
縄文時代人の目になって、景色を見回しました。
ここだけ、木も生えておらずなだらかな台地。静かです。近くを流れる大石川、大森川の瀬音が聞こえてきます。
環状列石は今から3000年ほど前に作られた遺構であることが分かっています。発掘された時、日本で最大の規模だった直径15メートルの竪穴建物跡は4本の柱が70センチの深さに立ち、中心には煮炊きするような窪地になっています。
しかし、しかしです。何のために作られたのか、解明できていません。「当時の気候は温暖で、現在の福島あたりの気温です」と今井さん。縄文時代の人々は、豊かな大地で食べものに不自由せずに平和に暮らしていたんだと想像しました。
▲復元された環状列石
▲4本の柱があった竪穴建物遺跡で
「冬至には太陽が岩木山山頂に沈みますよ」の話を聞きながら、岩木山を眺めれば、気分はもう、縄文時代人…。